『悟りとは、如何なる場合でも平気に死ぬることだと思っていたが、悟りとは如何なる場合でも平気で生きることであった。』
~11月14日生まれの 正岡子規の言葉
正岡子規は、1867年、愛媛県松山市生まれの俳人・歌人。近代文学に大きな影響を与えた明治時代を代表する文学者のひとり。東京帝国大学国文科を中退し、新聞『日本』の記者になる。記者生活の傍ら俳人として活躍。日清戦争に従軍記者として参加するも上陸2日で終結。帰国後は俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、俳句の世界に大きく貢献した。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。
正岡子規の他の言葉
『文章は簡単ならざるべからず、もっとも簡単なる文章がもっとも面白き者なり。』
『自個の著作を売りて原稿料を取るは少しも悪き事に非ず。されどその著作の目的が原稿料を取るといふ事より外に何もなかりしとすれば、著者の心の賤しき事いふまでもなし。』
『世間恐るべきは猛獣毒蛇にあらず、壮士暴客にあらず、ただ勉強家と沈黙家と謙遜家とのみ。』
『死ぬまで、ひっこむわけにはゆかない。』
◆加寿の感想と体験:
『悟りとは、如何なる場合でも平気に死ぬることだと思っていたが、悟りとは如何なる場合でも平気で生きることであった。』
とても味わい深い言葉です・・・
私は、33歳と44歳のころ「死んだほうがましだ」と思うようなつらい経験をしました。2回とも一度にいくつものことが同時進行しました。親しい人々と生別・死別し、会社を辞め、住む場所も変わり、一からの再スタートでした。
2回とも救いがあったのは、「次の仕事」を始めていたことでした。
33歳のときは、会社を辞めた翌日から写真の夏期講習に通い、職安に行き、自動車教習所に通い、見込み客を訪ね、資金調達をし、店舗つき住宅を借りて改装し、機械を設置し、開業の準備をし、家を出て一人暮らしで会社での寝泊りを始めました。
退社後40日で開業し、半年後にやっと免許も取れ、友人から中古車を譲り受け、受注に納品に走り回っていました。普段は仕事で表に出なかった感情が信号待ちの一瞬に噴き出し、涙で前が見えなくなったことも多々あります・・常にからだの中をゴーゴーと風が吹き荒れている状態でした。。
そこから、44歳での経験(機会があったら書きますね)を経て、『如何なる場合でも平気で生きる』ようになれるまで、ずい分時間が掛かりました。
思えば、そのときそのときに助け励まし応援してくれる方々がいました。心から感謝いたします。「どんなにつらいことがあっても、生き続ければ必ずいい方向に向かう!」と今は思います。
●ここまでお読みいただき、ありがとうございます(^-^)/
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